1/17/2007

沖縄のオバーとの対話


見知らぬ島のオバーに「あの花の名前は?」…と聞いたら、「サー何だったかネー、今度会うまでに調べておくサー」でした。「取り敢えず『美ら花』と覚えておきなさい」にはまいった。実にテェゲエナー(いい加減)である。だが、しかし、僕はそういう表現に親しみを覚える。

長い人生の風嵐に耐えてきた老婆の顔には、縦にも横にも大きなシワが刻まれていた。「息子が三人もいたけど、あの忌わしいイクサでネー、一人は硫黄島で、もう一人はルバング島で、最後まで島で親孝行をしていた三男は、島尻の防空壕の中で友軍に殺されサー」と語ってくれた。

敗戦後に一人身になってからは、与那原で作った豆腐を、頭上に乗せて徒歩で、首里~那覇方面へ行商をして、細々と生計を立てたという。イクサ世から~、アメリカ世~、そしてヤマトゥ世へと移り変わったが、「もう二度と戦争は御免だネー」と呟いておられた。沖縄の普通の人が「反戦平和」を口にする時、それは「反日」でも「反米」でもなくて、あの「鉄の暴風」を掻い潜った中から会得した平和への希求なのです!。

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