昼間の行灯
4/30/2007
4/29/2007
老いたタケーテルの悩み・・・/
従来は現役の勤労者だったので・・、三食の内の御昼と夕食は、外食なので「自分の欲しいもの」を食べていた。 ところがドッコイ最近は厳しい監視下にある。今日は買い物の帰り道に蕎麦屋に行くことにした。連れ合いが駐車場でモタモタしている間に、さっさと店内に入り込んで威勢のよい掛け声で「カツ丼一丁」と注文した。(・・「その一分後に後悔が待っていた」が・・)
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一足遅れで入って来られた管理士さまが、「いつもセーブしたら逆効果もあるから、今日は羽を伸ばして天麩羅のザルにでもしましょうか?」とのこと。一瞬しまったと思ったが、「本当はそれを食べたかったけど、カロリー低めのを注文しちゃったよ」・・・/ 果てさて・・、オーダーから15分後に運ばれて来たのは写真の御料理。奥方様は1500円以上の豪華な山菜天麩羅蕎麦だった。
4/28/2007
4/27/2007
4/26/2007
4/25/2007
新宿の駅を活動の拠点に・・・/
長い生活慣習なのかAM5:00時には目が覚める。当分の間は[月・水・金]を歩行リハビリに当てる事となったが、今朝は生憎の春雨で終日ずっと愚図つくようだ。里山のリハビリコースだと滑ったり転んだりとなる・・。 果てさてどうしたもんかと思い悩んでいたら孫からの電話。「爺は根っからのシティーボーイだろう。こういう日は新宿の地下街を歩くと良い」との事。(グッドアイディア・発想の転換だ~)
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「携帯電話」と「ノートPC」さへあれば万事OKだ。西口のデパートの喫茶室あたりに陣取れば、緊急なスポットのビジネスにも即応できる。重たい資料の入ったショルダーバック等は、コインロッカーに預け入れて自由自在に動ける。大雨が降ったって地下道を歩めば濡れない。都庁まで往復すれば30分はかかるし、都内の主要なビルや繁華街へと移動するのも便利だ。孫ッ子に何か素敵なプレゼントを差し上げなきゃねッ~。
4/24/2007
4/23/2007
脳神経のリハビリを完了して・・・/
発症直後の急性期から始めた院内での・・「早期リハビリ」・・も、今日のプログラム消化で「回復」の認定を得て完了となった。3っつのジャンルのペーパーテストがあり、其の1が100点、其の2が100点、其の3が88点で、総合点数が288点だった。理学療養士の先生から、「あなた程ガムシャラにリハビリに励んだ人は初めてだ。今日で院内での回復訓練は終了です」との嬉しいお告げが・・・/
4/22/2007
順調に機能回復しています・・・/
さて、今日は統一地方選挙の後半戦。/八王子でも市議選の投票日だった。一昨日の事だが今回5期目の女性候補から電話があり、「入院中もお見舞いに行けず、大変図々しいお願いだが、苦戦をしているので何とか・・」という支援要請があった。この女性議員は悪さもしないし、市民の政治付託に真面目に対応するので、今回も絶対に(V)当選させようと、重い足取りはであったが投票に行った。
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今日の歩行リハビリの目標は6㌔メートル也・・。/ 午前中に3㌔は消化をしたので、これから後3~4㌔歩かなきゃ!…。明日は病院内での頭脳のリハビリだ。眼が極めて不自由だというのに、パズルの難しい問題ばかりを出す。まあ、無駄な抵抗は止めて気長に付き合おう。今朝、この地域の防災公園で新規参入、60歳未満のゲートボールの練習を風景を見た。ハハッ、みんな健常者なんだろうけども・・、小山のような体重が災いして、ボールが四方八方への乱れ飛びだった。
4/21/2007
退院後の初ての診察に緊張・・・/
今日は退院後10日目の再診の日だった。ひょっとするとそのまま再入院かもという、一抹の緊張感みたいなものがあったけど・・、退院後のリハビリの経過が極めて良好という事で、手術の予定日を二ヶ月先の6月13~14日と決めた。執刀医もツゥーランク上の副院長先生となった。日本の医学会だけじゃなくて、ベルギーとかのヨーロッパでも有名な先生のようだ。
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一見して40代後半の若い Dr・Mから>「退院後のリハビリの数量は、どれぐらい消化してますか?」・・・。と問われて、「主治医からもらった実施予定量の2~3倍はこなしています。今週から週に2日~3日ていどの予定で仕事に戻りました」と恐る恐る報告をしたら・・・、Dr・「実に理想的な患者さんだ!。きつかったでしょうが素晴らしい事です」と、逆にお褒めの言葉を戴いた。又してキツネとタヌキの化かし合いが始まった。
4/20/2007
4/19/2007
4/18/2007
4/17/2007
明日は都心まで足をのばすか・・・/
4/16/2007
ひとしずく 頬に涙の さくらばな でした。
垂糸海棠(はなかいどう)母の爪切る日曜日 常盤 優 ※素晴らしき、在りし日の「親孝行の一句」ですね!…。僕は闘争に明け暮れた「貧者の青春」でしたので、「“親孝行 しようと思えば 親は無し”」でした。逝く間際に・・・、「たけし、頼むから、杯にほんの一杯でいいから、泡盛を注いで・・」とせがまれて・・、医師や家族の反対を押し切って、大きなタンブラーに「古酒」を並々と注いで、お別れの儀式にしました。島には今日も、南風が暖かく吹いているのだろうね・・・。
4/15/2007
煙草とは・「百害あって一利なし」也
時系列の「闘病日誌」・・・/
4/14/2007
なんと禁煙命令で、2㌔も太っちゃった・・・。/
大好きな珈琲と、不似合いなパン・・・/
今回の入院騒ぎで・・、身内の看病の一番の功労者は孫ッ子だと思う。一日も欠かさず通い詰めてくれた。病院の食事では足らないだろうと、着替えの袋の中に「クロネ」を忍ばせてくれたり、ドクターストップで吸えなくなった『煙草』の替りに、各種キャンディーを買ってきたり、何よりも嬉しかったのは宅配の新聞の差し入れだった。病人が何を欲しているかを良く承知している子だ。
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【入院三日目】
龍之介くん・「爺ちゃんサー、 もう大好きな煙草吸えなくなったんだね・・」
爺ちゃん ・「そ~だねぇ・・。 今度吸ったら大きな発作が起こるらしいよ」
急性期リハビリの実施
【発症2日目から急性期リハビリ開始】
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発症2日目に大部屋に移された時に、先ず、看護婦さんから「手足にシビレはありませんか」と尋ねられた。「両手を前に出して、掌を広げて、親指から順次曲げて、次に小指から広げて・・」と何度か繰り返す。両足が正常に動くかどうかも確かめられた。次に・・、「リハビリを受ける意志があるか否か」を質された。頭の中で・・、「これは手足が麻痺するのかも知れない」という恐怖感が漂った。その日から「一日3時間」の申込みを行った。
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僕の場合は既に半盲状態になっている。上記写真のペーパーの文字も、頁の右上から左下に斜めのライン上の部分が、全く視野に入ってこない状態である。絵文字の中から同じ絵を見付けて「〇」をつけなさいと、指示をされても見えないから仕方ない。リハビリ担当医師や理学療法士が何を求めているかが見えて来た。僕の症例に見合ったプログラム作りなのだ。その瞬間から闘病への楽しいチャレンジが始まった。4Fのリハビリ室のパソコンで、ブログ「昼間の行灯」を開いた。先生が「何方のブログなのかなあ?・・、あららッとっても素敵だわ!」と叫んだのだが、自分のブログだとは言えなかった。
4/13/2007
時の流れに素直になって・・・/
歩きながら考える習性・・・/
4/12/2007
病名は・・『脳梗塞』・・(後頭葉)でした・・・/
4月3日朝の出勤途上で、路上にて急に左目が見えなくなり、午後から職場を早退して眼科医院へ。
眼科医に「これは目の調子が悪いのではなくて、脳梗塞から来ている半盲状態です。措置が遅れたら半身不随となります。大至急『〇〇脳神経外科病院』へ搬送します」と告げられて仰天。何が何だか分からない儘に、大きな専門病院でMRI検査を受ける。
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主治医「・・・既に今朝の脳梗塞で左半盲状態となり、右の後頭葉の脳細胞が死滅しています。それに関しては保存的治療しかないが、もっと怖いのがこのMRIの解析画像によって偶然発見された『左内頚動脈高度狭窄』なのです」との指摘。 要は、今朝の脳梗塞で左目の視力を失ったが、左の首の頚動脈が極端に狭まっていて、これが詰まると全盲となり右の手足が麻痺しますという事なのである。
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この10日間で点滴を40本打たれ、24時間心電図検査を受け、繰り返し各種のCT検査を行い、次の大きな手術に備えたのだが、昨日の検査で「心臓の弁膜に異常あり」の結果が出た。それらの検査と同時平行でリハビリにも挑戦す。発症以来3~4日は新聞を読もうとした場合、紙面の左斜め半分が完全に見えなくなっていたが、5日目辺りからボヤケてはいるものの見え始めてきた。検査も一通り済んだので「外泊願い」を出したら、来週の土曜日までの一時退院が認められた。 【(以後次回へ)】
4/06/2007
4/03/2007
4/02/2007
テープ起こしは疲れますなあ・・・/
4/01/2007
次は「沖縄戦」も消そうとするだろなあ・・・/
(>_<)
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【あれは軍命だった」座間味・戦争体験者ら怒り】
[沖縄タイムス(3月31日の記事より)]
沖縄戦時下、日本軍の軍命と誘導による「集団自決」で百七十七人が亡くなった座間味村では、軍の関与を削除した検定に怒りの声が上がった。
日本軍と米軍の攻撃の中に取り残された中村一男さん(73)の家族は、日本軍に配られた手りゅう弾で「集団自決」を決行しかけた。「日本軍は各家庭に、軍が厳重に保管していた手りゅう弾をあらかじめ渡し、米軍の捕虜になるぐらいなら死になさいと話していた」とし、軍命否定は「歴史を歪曲することだ。私たちが戦争体験を語るのは事実を伝え、むごい戦争を二度と起こさないため。(国は)事実は事実として後世に伝えてもらいたい」と語った。」
文部科学省が教科書検定で『“沖縄の集団自決『軍強制』を修正”』をした問題で、沖縄のあらゆる階層から避難の声が髣髴と沸き起こった。まさに「静かなる民」が怒り心頭に達した感だ。島には大昔から「命ど宝」(ぬちどぅたから)という生命感がある。神から授かった命を寿命が尽きるまで大事にしましょうという精神である。白昼の肉弾戦のイクサに突入した極限状態の中で、鬼畜の恥辱に曝されまいと、軍命で予め軍から手渡された手榴弾で、あの凄惨な集団自決が起こったのである。あの悲惨な戦争を二度と起こしてはならなと、教育現場で児童生徒に教える事について、日本政府は何の不都合があるのでしょうか。次の段階ではあの『沖縄での地上戦』の記述まで改竄するお積りですか!。